「百人百様」だからね。
職があるのかないのか
妻子がいるのかいないのか
罹患しているのかいないのか
罹患していたとして症状の軽重はどうなのか
貯金があるのかないのか
借金があるのかないのか
特定宗派に関係あるのかないのか
特定圧力団体に関係あるのかないのか
特定政党に関係あるのかないのか
肉をガンガン食うのか食わないのか
医者や上司の指示に素直に従うのか従わないのか
肉親は存命なのか否か
親戚付き合いは頻繁なのか否か
町内会に入っているのかいないのか
持家なのか賃貸なのか
ビジュアルに拘るのか否か
まあ数え上げればきりがないわけである。
しかもそうゆうようなことって
人に会うたびに表立って表明する義務もないし。
ここまで羅列しておいて
こんなことを言うのもどうかな
と思うのだが
つまるところ
「自分の生活感」でいく他はない、と。
ただひとつだけ
もしかして
「日本国の中高年男性ほぼ全員」にあてはまる
「共通項」があるとするならば
それは
「大手広告代理店のマーケティングの対象に
最もとりあげられにくい層」なのではないか、と。
まあそのへんも
個々人の受け止め方の問題なので
「いやいやそんなことはないよ
おれは大人の休日とか毎号欠かさず買ってるよ」
という方もいらっしゃるだろうし
なんともあれなのだが
ただ自分はそんな気がしてならない、と。
ってゆうような
「個人的な思い込み」を
スタート地点としてみる。
まずそこで思いついた設定は
「取り立てて美味くもないが不味くもない料理店」
である。
「取り立てて美味くもないが不味くもない料理店」
に
そこそこの頻度で通う中高年男性
が
いる、と。
じゃ、何故通うのか?
「極私的感覚」で言えば、
そのような料理店は
少なくとも「激混み」ではない、という予測が立つ。
かと言って
「いつ覗いてもガラガラだなあ」という程の商売不振でもないので
「うわあ何ここ入るのおっかねえ」ってゆう印象を
近隣住民に与え続けているわけでもない、と。
さらに掘り下げよう。
仮にその店が「中華」だったとする。
店全体の評価が
「取り立てて美味くもないし不味くもない」
ってゆうことはどうゆうことなのかといえば
それはつまり品目毎にバラつきがある、
とも考えられる。
いやいやもしかしたら
どの料理を食べても
「美味くもないし、不味くもないなあ」
って思う場合もあるだろう。
ただそれはかなり「奇跡的」な確率なのではないだろうか。
私の極私的感覚では
ある料理店に
「取り立てて美味くもないし不味くもない」
という評価を下した場合
その内実は
「品目によって美味いものもあるし美味くも不味くもない
ものもあるしどちらかというと不味いとしか言い様のない
ものもある」
ってゆう状態を指す。
チンジャオロースーは美味いが
回鍋肉は不味い
水餃子は美味いとも不味いとも言えない、
みたいな。
これ
意外に
レアなケースなのではないか、と。
一体どうゆうことなのか?と、
普通なら思うだろう。
ただ私がこれから「作詞」しようとしている
歌のなかに出てくる「中高年男性」は
それを承知でその中途半端な店に
そこそこ通うのである。
ここで重大な疑念がひとつある。
「なかには美味いものもある」という評価が
果たして適切なのかどうなのか
という部分だ。
しかし
そこまで気にし始めると
前に進まなくなるので
それについては
華麗にスルー
で。