アイソーポス
アイフェンドルフ
Wアーヴィング
アクサーコフ
アヌイ
アネルセン
アーノルド
アポリネール
アミエル
アミヨ
アラゴン
アラン
アランーフールニエ
アリオスト
アリストパーネス
アルツィバーシェフ
アンダーソン
アンドレーエフ
イェイツ
イプセン
ヴァッサーマン
ヴァレリ
ヴィエレ・グリファン
ヴィコ
ヴィニー
ヴィーヒェルト
ヴィヨン
ヴィーラント
ヴィリエ・ド・リラダン
ヴィルドラック
ヴィーレック
ヴェデキント
ウェルギリウス
ヴェルコール
ウェルズ
ヴェルフェル
ヴェルレーヌ
ヴォルテール
ウナムーノ
ウルフ・ヴァージニア
ウルフ・トマス
ウンセット
エイジー
エウリーピデース
エマソン
エムプソン
エラスムス
エリオット・ジョージ
エリオット・トマス・スターンズ
エリュアール
エレンブルグ
オウィディウス
オースティン
オストロフスキー・アレクサンドル・ニコライイェヴィチ
オストロフスキー・ニコライ・アレクセーヴィチ
オーデン
オニール
オールコット
カフカ
カミュ
カミングス
カーライル
カルヴィン
ガルシン
カロッサ
キケロ
キーツ
キップリング
キャザー
クーパー
クープリン
クライスト
グラトコフ
グリボエードフ
グリム兄弟
グリルパルツェル
グリーン
クルィーロフ
クローチェ
クローデル
クロード・ベルナール
昨夜は「カメラに止めるな」地上波日テレでやってて
録画もしてたんだけど、
なんだかんだで帰宅してたし
あとから見直す時間ももったいないので
物凄く久しぶりに「リアルタイム」で地上波の
「映画番組」を見た。
感想はツイートもしたように
「業界」っぽいなあ
以上終了。
みたいな。
まあ「事前情報」にいろいろ触れたから
こうゆう感想になってる、
という側面もあるんだろうけど
自分好みの作品でないのは確か。
なんだけど声を荒げてdisる気にもならないし
面白いとおもったところもあったんで
★つけるんなら2つ半から3つくらいか。
で「業界」っぽい
ってことが何故自分にとっては
「不満」要素になるのか?
製作費300万だとか
出演者がお金払って出てますとか
ってゆうような周辺情報の内容が
「業界」っぽい
ってゆうより
「業界の学校っぽい」臭いが強くて
ちょっと共感はしにくい、と。
自分は音楽の「専門教育機関」に行こうと
思ったことないし、今後行こうとも思わない、
ってタイプの者なので。
無論その価値観を人に押し付ける気もないです。
人それぞれってことで。
ま、そういう学校的要素を込みで楽しめる人もいるんだろうし
そこのとこまであの手この手の論法使ってマウント取る気もございません。
ただただ「それも一つの見識ですね」
と言うのみ。
あとは単純に
「劇中劇」的なつくりのもので
他に面白いのたくさんあるよなあ、
って感じっすかね。
「映画づくり賛歌」的つくり
ってゆう要素に関しても
このカメ止めがベストとは思いませんでしたよ。
日本の「軽音楽」に関して。
相方おぐまから借りパク状態になってる
90年代中盤~平成終わりかけの今現在
くらいの、自分にとっては「新し目」に映る
各種音源に関する知識があまりにも無いことを自覚したので
とりあえず読んでみたわけだ。
著者も十分自覚してることだと思うけど
新書1冊の分量じゃどう考えても足りないだろうし
自分としては渋谷系よりは非渋谷系のことを知りたかったし
日本の軽音楽の現代史、的なものは
複数著者による「事典」形式のものの刊行が望まれる。
ってなんか読書メーター書き始めると
文章が硬くなるなあ(-_-;)
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ま、とりあえず感想の投稿第一号はこれにしてみた。
アマゾンカスタマーレビューの方が「長文」書けるようだが
まずは読書メーターの使い勝手を把握してまた考えよう。
ツイッターでも書いたけど、
封切り当初に映画館で見て、
その直後というわけではないが後日に
電車の中で知人とアツく語りあったりしたのだ。
まだ酒を飲んでた頃に。
大声で。
あまりよくは覚えてないんだが
曖昧な記憶をたどると
かなり大げさなことを自分は言ってた気がするんだな。
国家とは!芸術とは!
個人とは!組織とは!みたいな。
で、いまとなってはなんでそんなにアツくなってたのか
もうよくわからないのだ。
といってべつにこれから極端に態度を変えるつもりはなく
ただ単に時が過ぎていろいろ忘れたってだけのことで
じゃなんでいまごろDVDで見直す気になったかといえば
これ
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を読んだからなのだ。
伊福部昭が書いた本体部分もべらぼうに面白いのだが
巻末解説を鷺巣詩郎が書いていてそれも面白い。
で解説の文中では「シン・ゴジラ」にも触れていて
もしかして庵野監督は伊福部鷺巣まずありきで撮影する気になったのでは?
とすら感じさせるところがある。
で「音楽集中で再見」を目論んだのだが
封切り当初の際も音楽には十分感動したので
そこにはあまり気は行かずに
そんなことよりなによりとにもかくにもストーリ内で
「大活躍」する側のロスジェネ若手世代の役柄がふられてる
俳優たちのしゃべるセリフが何せ速いしそのうえ言葉数が多い!
(カヨコ・アン・パタースン以外)
ってゆうそこにあらためて感心したというか気づきがあった。
特に科学者集団の討議の際の若手のしゃべりとか
気合い入れて聞こうとしても聞き取れない!みたいな。
(カヨコ・アン・パタースン以外)
こりゃもう昨今の一部J-popの「言葉数の多い歌詞」そのものじゃないか、と。
しかし伊福部鷺巣 の音楽はそのノリには準じておらず
あくまで旧ゴジラだったりエヴァだったりの世界のもので
「日本再建」の場が始まる前に退場することになる
言うこと為すこと全てがギャグのように見えてしまう
「七五調」セリフの旧世代首脳側の方に語法が近いというか
旧ゴジラの音源もそのまま使われてたりするので
それに関してはまったくもって「旧日本」なのだ。
これはどっちがいい悪いということじゃなくて
どっちも描かれているから面白いってことだと思う。
ということで現実には国家的問題となっている
「待遇的に恵まれていないロスジェネ世代」が
総動員され大活躍して日本を救うっていうファンタジーに
その当事者も上の世代も下の世代もアツくなったんじゃないか、
と。
ということで「ネットわかってない大臣」とか
「パソコンのなかった経団連会長室」とか
そういった時事、世事を経た後に観てみると
また味わいが変わってくる映画だなあ
とシミジミ思う冬の夜なのであった。
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ということでTSUTAYA、月間1000円で
「一度に三本まで返済期限無し」
のパターンで近所の店の会員になってて
そうなってくるとamazonプライムとかに被らない作品を
ってことになり、するってえとこういった欧州作品を
借りる機会が多くなってくる流れなのだ。
タヴィアーニ兄弟は
カオスシチリア物語
と
グッドモーニングバビロン
は見たことあってこれは未見で
ほんとに題名しか知らない状態だったので
そりゃもう見てびっくり!!
でしたよ。
想像をはるかに超えた過激さで。
話の筋は、「イタリアの離島の農家
の息子が一家の労働の為に
父親から強制的に義務教育放棄させられ
年がら年中労働に明け暮れさせられ
成人してすぐ「家の名誉」の為に軍隊に入って
すったもんだの挙句父に反抗して言語学者になる」
と。
これはネタバレも何もなく
「大人になった主人公」が冒頭にそのことを
大雑把に振り返る設定なので
これくらい内容説明しても全然支障ないだろう。
で、だ。
農家の暮らしがリアルに描写されまくるんだけど
これが個人的に敬愛する故谷岡ヤスジ師匠の十八番
「村(ソン)」の世界さながらなのである。
谷岡ワールドでは
タゴが屠殺する場面、
獣姦する場面、とかしれっとあるけど
この映画にも「農家では普通」で
「農家以外小市民には非日常」な
その類の荒々しい場面がある。
さすがに獣姦は「疑似」で曖昧に撮影してるけど
屠殺場面は本物ですね。
この屠殺場面本物ってのは欧州映画では珍しくないので
最近は慣れてはきたが
ここで「自分語り」に寄せると
いま現在「農業」関係者ではあるものの
しめる、さばく、とかいった経験は私には皆無なのだ。
40代後半からの途中参入のど素人なうえに
昔はあった、という鳥小屋も豚小屋も
とっくに無くなっている。
で、身近に「鳥」さばいた経験者はいるのだが
そうゆう流れなので教わる機会もなかったし
仮に鳥小屋残ってたとしても
「いやいやいやいや無理っす」って言ってたと思う。
基本は街で育ったもやしっ子なので
草木はまだしも動物相手はちょっとキツイと。
貧弱で申し訳ない、と。
申し訳ないのではあるがいまさら適性のないことに
無理矢理挑戦してもそれは時間の無駄とも思うので
「そんな自分ですみません」とまで言う気もない、と。
で、それはそれとして
本物の屠殺場面が映画にあることに関しては
異論はないけど好んで見続けたくはない
くらいの考えなのでそうゆう場面はカットしろ
っていう気は全くないし必要だろうとすら思う。
それとはべつに映画じゃなくて
ライブとかで「パフォーマンス」で
予告なしにその手の行為を見せる、ってのは
支持はしない、とまあ簡単に考えを明示しておいて
話をあさっての方向に持っていくと
そうゆう荒々しさドギツサもあるけど
基本は「父と息子の成長物語」なので
ハートウォーミング的泣きの流れもあるにはある。
そう、あるにはある、程度である。
やはりその昨今のDV、ハラスメントに厳しい
世の流れに身を置いてると
とにかくこの「父」の横暴家長ぶりには
昭和世代のオヤジである自分ですら
いやいやいやいやそれはないだろう、ってなる。
どれくらい酷いのか?って細部はまあ伏せておこう。
とにもかくにも自分としては
ああなんでいままで見てなかったんだろう
と、そこの不明は恥じる。
これは掛け値なしに衝撃的な名作だと思う。
感動のポイントはやはり
原作者でもある主人公が「字読めない書けない」の状態から
ガチで言語学者になるっていう流れそのものですよ。
しかも言語学者は言語学者でも
出身地の「方言」の言語学者ですからね。
自分の場合は真逆で
「頭でっかちのもやしっ子」があとから農業へ
だし、本来「故郷」であるはずの
「沖縄方言」とか覚える気まったくないし
さらに云えば自分の実父はその方面でガチで保存活動してて
なんかこう負い目というか引け目は多少感じますよ。
ええ、でも「反省」はしません。
心の健康の為に。
百姓のうちの百は目指せないことを自覚し、
できることをひとつずつでも増やす、
くらいな心構えでやりますよ。
ということで「幻の湖」なんだが、
昨夜スカパーでやってたのを録り貯めつつも、
リアルタイムでもはりつめた気持で見た。
やっぱりまた中座することもなく見切ってしまった。
何故そうなるのかは自分でもわからない。
とにかく何もかもが終始「異様」なまま事がすすむので
そのペースにひきこまれてしまう、のかもしれないが
内容についてはアマゾンレビューでも見てもらえばわかるので
いつものように「自分語り」に寄せていこう。
ま、一言だけ「内容説明」しておくと
「愛犬を殺されたジョガーでもある雄琴のソープ嬢の復讐譚」
といったもので、それがかなりのとっちらかり様で語られる。
なのでまず「走る」ってのがかなり前面に出た映画だ。
でその「走る」と「狂気」について自分語りをしよう。
思い出すのは「校庭一周」の距離を加算していって
遠い他所の土地のどこらへんまで行けるかを児童生徒に競わせる
ってゆう学校当局の体力増進策のあれである。
最近はあるのかどうかよくわからないが
自分が児童生徒の頃はそこそこの頻度で実施されていた。
廊下か教室に各個人用の日本地図が貼り出され、
休み時間に校庭を周回して自己申告で到達地点表示を更新するのだ。
ただそれだけのことだったと思う。
「褒美」のようなものがあったかどうかももう記憶が定かでない。
で、だ。
自分はここのブログを始めてもう十四年目になるのだが
いま大雑把に振り返っても概ね自分のキャラクターってのは
「世の中斜に見る」流れであり、
トレンドとか流行を馬鹿にする傾向であり、
氷バケツリレーとかフラッシュモブとか勘弁してくれ、
ってことであり
まあポジティブシンキングや感動ポルノなんかに流されないぞ!
ってゆうようなことでかなりの字数費やしてきたのだ。
ほんとうの魂のジャズってのはこうゆうことなんだ!!
ってのを身を持って示そうとして来たともいえる。
だがしかし、人は実は「自分」のことをいちばんよくわかっていない
ってのをまざまざと痛感させられるのであった。
「仇敵」が「客」として現れて店のコスプレ和装のまま
出刃包丁を持って走る南條玲子の姿を観るにつけ。
おれも「皆と一緒に」、「アツい気持ち」になって
「理不尽」なまでに走っていたじゃないか!
と。
しかも「憎むべき学校当局」の策にまんまと乗って
恐るべき純真無垢さを発揮して
「今日は名古屋まで行くぞ」
「明日には大阪だ」とかいって
休み時間ひたすら校庭を周回してたじゃないか、と。
さてその時自分だけでなく皆が皆といっていいくらいに
校庭を大勢が走っていたのだが
あらゆる「行動」というか「行為」には
過剰適応ってものがつきもので
手段と目的が何がなんだかよくわからなくなってきがちだ。
まさにこの「幻の湖」のように。
で、日本国校庭周回トライアルもだんだんと狂気じみてくる。
まずは始業のチャイムが鳴っても走るのを止めない者が出て来る。
その輪の中に自分もいた。
でだんだんと「周回」の輪の円周が浅くなってくる。
校庭の「縁」を走っていたものがだんだん中心に寄ってくる。
で、それじゃあちゃんと距離稼いでないじゃないんじゃないか?
という「良心派」の声もあったような気がする。
気がするのだがそれも「狂気の集団」の輪の中ではかき消される。
でまたその集団の輪の中に自分もきっちりいた。
「いいんだよ一周は一周ってことで!」とか言っちゃって。
そしてしまいにはちびくろサンボのトラみたいに
ほとんど木の周りを回ってるんじゃないかってくらいに
極端に円が小さくなってるのが職員室の窓あたりからも
判別できるようになってきて
一番声のデカい体育教師あたりが
「おまえら馬鹿か!?そんなことならもうやめだ!」
って言い始めて周回トライアル企画ごと中止、以上終了みたいな。
狂気の走り屋集団は学校運営そのものに支障を来たすという
恐るべき破壊力を発揮したのである。
中止を申し渡された時どう思ったのかってのも
もうよくは覚えてないんだが
決して「純真無垢な気持ちを汚された」とかじゃなく
「なんだよーせっかく楽しく遊んでたのによー」
って感じだったような気がする。
私がこの映画を観て三度目、
思い出したのはまずそのことだった。
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なんだかんだで大晦日ではあるが
平成2年以降、盆暮れ正月あんまり関係なし
ってゆう生活に慣れ親しみまくっているので
さらっと流そうかとも思ったけど、
ツイッター他、各所で書いたように、
メルカリで売るつもりのDVDを見始めたらハマる
の流れになったのであった。
で「果てなき航路」である。
ジョンフォードの1940年の作品である。
戦時突入の頃の船員の話である。
カメラ担当したのが後に「市民ケーン」を撮った
グレッグ・トーランドである。
原作はノーベル文学賞受賞者ユージン・オニールの戯曲である。
といったことを踏まえて「自分語り」中心の流れに突入しよう。
まずは大体この一作品一枚200円を切る
「廉価版」的なDVD10枚組を自分は6年前にアマゾンで買ってた
ってのをアマゾンの自分のアカウント見て
今日再認識したのだが当然覚えてない。
買ってから10枚のうち何枚見たのかも覚えてない。
ただ、購入以前に10作品全部どこかでは見てた。
レンタルビデオのVHSとか映画館とかテレビとかスカパーとか。
そのうちの何本かは1995年に今は亡き千石「三百人劇場」での
「生誕100年ジョンフォードの世界」ってゆう企画でスクリーンで見てて
「果てなき航路」もそこで見たのは間違いない。
千石ではあと「真珠湾攻撃」と「若き日のリンカーン」も見たと思う。
で、いまこの年の瀬、メルカリで小銭稼ごう、DVD売ろう、
もったいないから売る前に見ておこう、
ってなって、そこそこな種類も枚数もあるコレクションのなかから
「果てなき航路」に至ったわけだが、
それはそうゆう気分だったから、としか言い様がなく
何故そうゆう気分になったのか?ってのは
見終わってからわかった。
ああ、そこにいるのはおれだ、おれたちだ
って思える予感がして実際そうなった、ってことだ。
危険、汚い、キツイ揃ってます!!
みたいな3K仕事的な職場の話なのだった。
それを実に巧みな演出で語っているので長さを感じなかった。
戯曲が元になっているということなのだが
ユージン・オニールの「船員もの」シリーズのいくつかを
貼り合わせて脚本にした、ということのようなので
世に数多ある芝居原作映画に比べて「芝居っぽさ」はそんなになくて、
細かいストーリー性みたいなものは希薄で
時間に沿って出来事が並んでいくのだが
伏線やらオチやらもきっちりあるし、
船員役一人一人のキャラクター造詣も見事。
といまはこうして書いてるけど
1995年劇場鑑賞当時の印象は「グレック・トーランドのカメラワーク」
という技法の記憶の方が鮮烈だったのだと思う。
だからあらためて「どんな話だったっけ?」となったのだ。
1995年だと自分はまだ30超えだばかりだった。
なわけでこの映画に出て来る「ロートル船員」への感情移入とか
当時は全然できなかったのだろう。
一応ネタバレに注意して少しだけ触れると
立ち居振る舞いがアウトサイダー的な新参船員のエピソードとか
いま見るとなかなかに強烈で涙腺ゆるむ勢いなんだが
1995年時点では
さらっと流して見てたような気がする。
月日の流れってのを切々と感じるほかなし。
全体としては多人数の登場人物の悲喜劇を冷静に描いていて
「船の労働現場の話」
となると階級闘争的側面はほぼ必ずつきものなのが相場であり、
この映画にも船長等の「制服」組と、肩書なしの船員との間の対立やら溝は
描かれているのだが死に瀕している者は皆で上下の区別なく助けようとするし
また葬るときは全員で十字を切る。
そこはやはり「プロレタリア芸術」の理論には基づいていない。
そういうイデオロギー的なことは
自分は評価に交えないようにしてるので特にだからどうということはない。
で「自分語り」部分に移るんだけど
嵐に立ち向かう船員の場面で
「嫌がらせで大便器に異物混入されたパチンコ店」に居た自分と
自分たち、を思い出した。
1995年よりも前のことだった。
店側だったからどうしたってそりゃ治さなきゃしょうがない、
治さなきゃ、ああこりゃもう便器ごと外さないと無理だあ、
ちくしょうめ、このやろうめ、つって男4、5人で糞尿まみれになって
最後はもうヤケクソで笑うしかない、みたいな。
結局、人生糞だうんざりだ。そんな糞の中で死んだり死ななかったりするんだ、
ってなことをしんみり感じさせられる実に偉大な作品だと思う。
さてユニット中前適時打「一時活動休止中」
ってことだったのだが、それはもう「解除」になっており
活動「再開」し「予定」は続々入り始めてはいるけれども、
いまはその再開前のエアポケット的な休止タイムなので
互いにいろいろインプット多めの時を過ごしており
相方おぐまも自らのブログでDVD備忘録を書いてもいたし
私もそれを真似るもなにも、もともとここのブログには
「input備忘録」ってゆういま使ってるこのカテゴリーも
だいぶ前から設置してあったので久々に長文いってみよう。
基本ネットスラングはあまり使いたくないと考える者であるが
これは「DQNの鍋パとその後」を描いた肉食系恋の鞘当て映画である。
なにしろ宣伝のキャッチコピーが
「ゲスで!エロくて!!DQN(ドキュン)」だし。
見終わって「看板に偽りなし」と誰でも思う類のものである。
で自分によくありがちなことなのだが
映画を語るようでいていつのまにやら「自分語り」になってる
ってなことに今回もなるだろう
というかいまからもう明確にそうする、
おれは「恋の渦」を借りて自分語りをこれからする!
と宣言する。
で、だ。
肉食系の世界ってのは
いまもむかしも変らないってことで
私はこの映画の時代設定よりもはるか前
モバイル端末が大衆化するだいぶ前
平成初期の頃にこの映画のような世界に居たことがある。
「職場」が「ディスコ」だった時だ。
世界の北野のアウトレイジの宣伝文句が
「全員悪人」なのだが
それをもじれば
「全員肉食系」の世界とでもいうか
客側店側ほぼ例外なく全員肉食系!
みたいな。
いやほんとに嘘でも誇張でもなく
若年女性客が男性従業員に
「あたし飢えてるの」と迫ってくる世界なわけだ。
「あ、いやおれ飢えてないっす」と返すほかないわけだ。
じゃなんでそこにいたのかというと
総合レジャー会社に
新卒社員としていたので
「実地研修」で期間区切られて放り込まれた
と。
いろんな業種「体験」して
最後に自分に合いそうなのを選べ
と。
ほぼ30年近く経ったいま思うのは
金もらったうえに冒険させてもらいました
ってところか。
念の為明記しておくけど
「肉食系若年女性客」とはやってない。
一切やってない。
その「やるやらない」に関して言えば
バブル弾けたあと
とはいえ
小谷野敦の童貞放浪記も
「草食系」っていう広告代理店用語も
影も形もない頃であり
とにもかくにも
人間やれるものならできるだけやっておけ
ってな空気に満ち溢れた時代だったと思う。
「やるとかそうゆうの興味ないんすけど」
とか
「やりたくてもやれないんすけど」
みたいな存在は
いないことになってた世界というかなんというか。
で「恋の渦」はガラケーとスマホ共存くらいな
近い過去
の時代設定なんだが
私が身を置いた「バブル直後」の肉食世界は
当然モバイル端末は大衆化していないので
もっと心穏やかでのんびりしていたのかというと
全然そんなことはなく
むしろこの「恋の渦」のDQNぶりをはるかに超える
鬼の所業みたいなのがはびこっていたのではないか、と。
ネタバレしないように
細部は省いて書くが
モバイル端末ってのは
恋の渦の舞台設定においては
「ばれない浮気」に役立つ道具
でもあり
「浮気がばれる」道具
でもある。
ばれるばれないいずれにせよ
そこにはとりあえず
「隠す」
というか隠そうとする心性が働いている。
それが羞恥心にせよ自己保身にせよ。
でモバイル端末無しのバブル直後の肉食世界なんだが
そうゆう飛び道具のない「肉弾戦」なので
恋の鞘当て
みたいなのが始まるととても悲惨なことになるのだ。
どうゆうことか。
男女どちらと問わず
「一人」の存在を複数で争ったとする。
争ってる側がそりゃもう必死だったとする。
そしたらもう恥も外聞もなくそれこそ恋の渦の「鍋パ」みたいな席で
「おれこいつとやりました」
とか
「こいつはおまえとおれとあいつとやってます」
とか
そうゆう恐るべき暴露合戦が当事者を目の前にして始まる!
みたいなね。
「モバイル端末を使用して
上手い事隠蔽してその場をとりつくろう」
ってゆうある意味「文明的」な行動の介在する余地がない!
みたいなね。
機器の進化によって
人間の行動様式も洗練化されてるのではないか、と。
「恋の渦」を見て感じたのはまずはそこだった。
で、あとはたまたま直近で見てた
ヒッチコックの「ロープ」との比較だ。
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これは
「欧米」の「上流階級」の観念的な「殺人」が題材。
恋の渦は
日本のDQNの「浮気」が題材。
まあ「浮気」というよりは「性的放縦」としておくか。
ロープの「殺人」は「死体」にしておこう。
ロープでは「死体」を隠そうとする。
恋の渦では「性的放縦」を隠そうとする。
限られた場所で何かよからぬものを隠そうとする
ってのが
この二つの映画の共通点ってわけだ。
時代も人物も洋の東西も設定も違うけど
どちらも
「限られた場所で何かを隠す
ことを描くことによって生まれるサスペンスを味わう映画」
だ!と。
あとはどっちも芝居というか舞台が元になっている、と。
で自分個人としては
見終わった時の感覚も近い。
「隠すべきよからぬこと」が描かれてるので
「さわやか」な気持ちには全くならないんだけど
なんか細かいところのサスペンスが快感だったなあ
みたいな。
隠されるものは「死体」だったり
「性的放縦」だったりするけど
もっとみもふたもない言い方をすれば
誰しもが持つ
「ゲスな心の有り様」
を隠そうともしている。
ロープでは「ガチで逝っちゃってるエリートの選民思想」であり
恋の渦では「イケてない者を見下すイケてないやつの心持」である。
どっちもほんとに「ゲス」である。
ああなんてゲスなんだろう
でもおれにもそうゆうゲスなところ皆無とはいいきれないなあ
ってゆうような背徳感を見る者に味わせる効果を発揮している。
ロープでは何にも知らない小市民という設定で
死体になった被害者の父親も出て来る。
で犯人役ジョンドールの「ニーチェ超人思想援用からの
殺人行為正当化演説」を聞かされた時、
「年寄りにはそうゆう話題はちょっと」みたいな
不快感を表すセリフを吐くのだった。
背徳感もいいけど
やっぱそんな極端な考えはちょっとどうかと思うよ、みたいな
そうゆうワンクッションがあるわけだ。
で恋の渦だとそれは「イケてない」設定の
「タカシ」の役回りなのか。
ということで
備忘録なので
自分語り交えて
「恋の渦」を強く薦めるでも貶すでもなく
とりとめもなく終わろう。
薦めも貶しもしないけど
自分としては見てよかった映画だったとわりと強く思う。
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ということで、このカテゴリーで書くのは久しぶりなんすけど
気が向いたら買ってください。伊藤整。
ええまあ私は古本屋で150円で買いましたけどね。
で、タイトルの
「思いつき」と「反射」ってのに触れますと
まずそもそも何故いま伊藤整に飛びついたのか
ってゆう流れを説明しましょう。
フジテレビ女子アナウンサーの
不倫報道がありましたね。
文春で。
で私は「ゲス極」の頃から
一貫して
不倫報道無益なので不要!
とゆうようなことを
ツイッターでもブログでも書いてて
小室問題で
「文春不買」を固定ツイートにしました。
今は解除してますけど。
あくまで「市民の常識」として
「不買」は言うけど
廃刊とか廃社とかそこまでは言わないよ
くらいな温度でした。
ただそのとき
「ネット記事」は読む!
ってことにしてました。
それはその先ほど触れた
「フジアナウンサー不倫」の文春の
ネット記事を読みたかったからです。
もう高邁もなにもないのです。
弾劾すべきはずの「不倫報道」なのに。
そう私はその報道にあったシチュエーション、
「竹林」とか「小屋」ってのに
反応したのです。
「反応」と言ってもあれですよ、
あくまで「観念的」な反応ですからね。
ましかし観念的とはいっても
それはもちろん「下半身」にまつわることです。
私は「竹林」とか「小屋」とかの字面に
中学時代に読んだ
「チャタレイ夫人の恋人」を
真っ先に思い浮かべたのです。
主人公の男女が情交を重ねるのが
「森」の中の「小屋」なんすよね。
あの小説。
まざまざと中学の頃の
あの読書体験が!!
みたいな。
そりゃもちろん、その情交に至る
「過程」やら「環境」やら
それをやってる二人の境遇やら
「チャタレイ」と「文春フジアナ不倫報道」では
まったくもって全然内容は違うんですけど
なんにつけ「即物的反応」をしがちな性格なので
「竹林!!」「小屋!!」
→
「まるでチャタレイ夫人!!」
みたいな流れに。
で、チャタレイ夫人の翻訳で
「チャタレイ事件」の裁判の当事者だったのが
伊藤整。
なわけなので
いま伊藤整を読まないでどうする!!
みたいなね。
文春が「竹林」とか「小屋」とか
書かなければ
伊藤整の本
死ぬまで読まなかった可能性もありましたよ。
そうゆう意味では
サンキュー文春
ですね。
伊藤整の本、面白いっす。
ま、これの前から
あちこちで買い集めててて
いろいろ読んでましたけど
特にこれはいろいろ腑に落ちる感じがして
たいへんけっこうなものです。
薄くて読みやすいし。
「文学」がもちろん話題の中心なんですけど
表現にかかわる者
が読めば、
いちいちいろいろ腑に落ちますよ。
いやほんとマジで。
ああ、おれも「近代日本人」なのか
もしかして?
とかね。
お金払って、
他の娯楽に費やす時間を
割いてでも映画館に行く価値は
「ウルトラマン」世代の
怪獣特撮モノに
アレルギーのない人であれば
間違いなくある。
私は図画工作の才能皆無なので、
今回のゴジラの「造形」の良し悪しを
批評する立場にはないんだけど、
なんかこう
形が変わ
おっとこのへんにしておこう。
で、
脚本の面でのあれやこれやだけど、
ゴジラ映画が
防衛省や自衛隊の
「全面協力」で製作されるのは
普通のことなので、
イデオロギー的立ち位置のみで
「酷評」してる論者というか評者には
当然共感しない。
気張らずに
人生楽しめばいいのに
と、老婆心ながら思う。
で、それはそれとして
特撮好き
ゴジラ好き
の猛者から
「こんなのゴジラじゃねえ」
みたいな酷評も出まくりで
特に
ゴジラオタク
でも
特撮オタク
でもない自分としては
なるほどなあ
とも思った。
思ったんだけど
とにもかくにも
映画館で見た方がいい
と自分は思います。
タモリ倶楽部でおなじみの鉄ヲタ女子の市川紗椰がユアタイムで
そして小谷野敦がアマゾンレビューで絶賛してたので
ってのもあったし
なによりタイトルの「コンビニ人間」ってのが
琴線に触れたので書店で購入して
サイゼリアと自宅とで半分ずつくらいの分量読んで
途中ワインで朦朧としたりもしたので
正確な時間はわからないけど
少なくとも「半日」かからず一気に読了。
とりあえず
分析とか批評とか
そうゆう科学的な行為をするつもりはなく
何故自分はこれを面白いと思ったかということを
重点的に書く。
細部は省略として
おおざっぱに言えば
コンビニバイト一筋18年の未婚&恋愛経験ナシ&処女
の36歳
とコンビニバイトを含めあらゆる「職」に挫折しつつ
未婚&恋愛経験ナシ&童貞
の35歳
が主要登場人物に据えられているお話ですよ、
と。
もうこの設定自体が
新卒で就職して
わりかしすぐに結婚して
その後間を置いたけれど
一児を儲けた自分とは
あまりにも環境が違い過ぎるんだけど
そんなことは全く関係なく面白く感じるのは
まずその
女→コンビニに過剰適応
男→コンビニどころか社会に不適応
ってゆう構図にあって
ネタバレ防止でボカして書くけど
「恋愛描写」「性描写」的なものが
見事に全然でてこない。
でてこないのは何故かってのは
読めばわかる!みたいなw
で、ここから先は
恋愛とか性とか童貞処女問題とかとは
まったく関係なく
上述した「過剰適応」について
個人的な体験をからめて
推し進めることにする。
作中、語り手でもある主人公女性は
コンビニバイト店員として
コンビニの「部品」になることに徹する。
で、18年間8人の「店長」に仕え、
「正社員」になることもない。
出自はミドルクラスであり、
格差社会の最下層ではないので
家族友人知人からは
「いつまでコンビニバイトなの?」
「恋愛しないの?」
「結婚しないの?」
みたいな有形無形のプレッシャーを受けるのだが
それを適当に「受け流す」ことに
全精力傾注する。
児童生徒の頃から風変りだった
ってな描写があり
周囲からは「治る」ことを切望される
というくだりもちりばめられている。
で、タイトルに書いたように
この主人公は
「弱者」なのか「強者」なのか
ってところなんだけど、
これはもう「精神的勝利」ってゆう観点でいえば
ほぼ「絶対強者」だと思うのだ。
自分が「コンビニ人間」であることに
下手に出てるわけでもなく
かといって
上手にも出ていない
というか
そのへんのスタンスの
「のらりくらり」加減が実に味わい深い。
「酔拳」的な強さと言うべきか。
「コンビニ賛歌」
でも
「コンビニ哀歌」
でもなく
「コンビニ人間」
ってのがシブいわけですよ。
ということで
実は「コンビニバイト」経験もあるし
新卒で入社した会社が総合レジャー産業会社だったので
ほぼあらゆる業種の店商売の「現場」の実地研修の経験あったりもして
この小説の具体的な「仕事の場面」の描写が
逐一面白いと感じるのでした。
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ってことで、
世代がわりと近いので
ほんとにスラーッと読めた。
小谷野敦氏は私から見れば2学年上。
で文中出てくる
「20世紀少年」の浦沢氏は
5学年上
になり、
ここいらあたりの世代の
数年の年齢差
っていろいろ価値判断の微妙なズレがあり
「20世紀少年」でやたらとストーリーに絡む
「万博に行けたかどうか」問題
に関しては
私も小谷野氏同様「で?それが何?」
と感じていた。
話は全然飛ぶけど、
5学年上
くらいの音楽評論家は
ほぼ皆「レベッカ嫌い」だった印象あるしw
私は5学年上世代が
あげつらう「レベッカの酷いところ」
は承知のうえで
でもそれはそれってことで
いいんじゃないの?
と思ったり。
つまり「一世代」じゃなく
「半世代」くらいの生まれの違いでも
かなり認識の違いは出てくるわけだ。
で、「帰ってきたウルトラマン」である。
この本読み終わり次第
huluで順不同で見まくりなんだけど
やっぱり確かに面白い。
というか
小谷野氏同様
「本放送」時
に
「白黒テレビ」
で見たんだけど
私の場合は「小1」だった。
なので各エピソードに
出てくる少年少女とは
同世代であり
いきなり当時の記憶が甦るのであった。
私はこの頃
小田急相模原と相武台前の中間
くらいの場所に住んでいて
小学校入学前
の空白期間
みたいなのがあって
通常「幼稚園」か「保育園」に通うところを
「フリー」で過ごしていたのだ。
つまり幼稚園にも保育園にも行かなかったのである。
ということで
小学校入学前の
幼少期の「ともだち」で
名前を憶えているのは
ただ一名のみ。
小学校入学するまで
「集団行動」未経験
だったわけだ。
で以前にも書いた気もするけど
そのたった一人の「ともだち」は
座間キャンプの米軍人の娘さんで
「カレン」という子だった。
幼稚園にも保育園にも行かず
ブラブラしていたら
桑畑付近の道端で出会った
というノリだったんだろう。
お店やさんごっこ
とかしてたと思う。
見た目、
完全にアメリカ人で
両親ともにアメリカ人であり
しかし
日本語ペラペラだった。
なのでコミュニケーションに不自由ナシ。
ご自宅にお邪魔して
いろいろなアメリカ風手料理、
アメリカ風おやつ
なんかをふるまってもらったりもした。
とここまでの事実だけだと
人は「和やかな国際親善、しかも
幼児同士とか実に微笑ましい」とか
思うかもしれない。
まあ実際大半は「和やか」な時間を
過ごした気がする。
するのだが
これまた日本語ペラペラの
カレンのお母さん
が
「軍人の妻」だったからなのか
とても怖かったのだ。
ちなみにお父さんにはお会いした記憶はない。
とにもかくにも
よそ様の家の子
だろうがなんだろうが
なにか「行儀の悪い」と見做される振る舞いを
しでかすと、烈火のごとく怒るのである。
大半楽しくは過ごしたような気がするんだけど
「カレンのおうちにいくとヤヴァい」
と幼心ながら強烈に刻まれたのであった。
たぶんぶたれたりはしなかったとは思う。
で、自分の家でも
両親におこられがちな
「自我皆無の洟垂れ小僧」
だったので
同世代との集団行動
を
覚える前に
「大人から怒られる」のに慣れた
という側面があって
なんの事前準備もナシに
「学校」に行き始めたわりには
不登校やひきこもりになることもなく
ほぼあっさり児童生徒期を過ごしたような。
いろいろあったかもしれないんだけど
特に児童期は「早熟で利発」って面は
まるでない
ほんとの「洟垂れ小僧」だったのは
まず間違いないw
何か他の子と極端に違うところが
あったとすれば
やたらとクラシック音楽を聴いていた
ってところくらいかな。
でもそれもほんと「聴く」のみであって
ピアノやバイオリンのお稽古
なんてのは縁遠いものだった。
と当初の話題とは
どんどんズレて
とりとめもなく終了。
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tsutayaで借りて。
自分も最近「セッション」づいてるしw
特に複雑な内容の映画じゃないけど、
一応ネタバレに注意しながら感想書くと、
「おれにはこの学校無理」
ってゆうね。
「スパルタ式」からは
今後も生涯かけて逃げ続けるつもりですw
主人公の「若気の至り」感が
けっこうリアルに描かれてて
面白かったです。
「音楽に邁進する為」
に彼女と別れる
ってそりゃもう「若気の至り」以外の
なにものでもないでしょうw
それと一応「カップル」成立が
描かれたにも関わらず
性描写はおろかキスシーンもナシ
ってのはある意味斬新でした。
基本「少年漫画」のノリですね。
あとJAZZの描かれ方で
菊池VS町山間で
論戦起きてたんだ
ってのを見終わったあとで知って
読んでみたんですけど
それはそれで面白かったです。
私としては
自分が「わりとよく知っている」
分野の「映画作品」については
スタンスとしては
町山氏に近いかなあ。
パチンコとか野球とか
を描いた映画とか
「ああ、それある」
とか
「いやいやそれはないだろう」
とか
そうゆうのがあったりなかったりする、と。
ま、でも映画だし、と。
ほんとその時の気分ですね。
リアリティーを求めたい気分のときもあれば、
リアリティーなんぞどうでもいい気分のときもある、
と。
ということで、
とにもかくにも映画に関しては
思いつめることなく
適当に付き合うようにしております。
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以前にも書いたと思うんですけど、
事前にいくら煽っても「安倍政権」になるのは
労働人口の割合が昔と違って
「第三次産業」に従事する人の数が増え
そうゆう層の人に向かって
特定の政治イシューを美辞麗句で
あれこれ訴えたところで
全く心に響かない
どころか
なんだなんだ?おれらの生活をつぶすのか?
って話になっちゃうわけですよ。
コンビニ弁当食べて
寸暇を惜しんで
激務をこなす「実務家社会人」にしてみれば
原発も安保も
適当な落としどころをみつけて
いつのまにかなんとかしておいてくれればOK
であって、
この本の239Pの小見出しにある
「実務社会人の関心は景気と社会保障」
ってゆう
この文言で
特定問題に拘るリベラル派
の弱点
というかターゲッティングの間違い
はもれなく言い表されてると思います。
何十万人
「動員」しようが
それは単なる「互助会」というか
「サークル」でしかない、と
それだけのことです。
自分が学生の頃
ビッグコミックスピリッツ
がわりと流行してて
「気まぐれコンセプト」ってゆう
アメコミ風味のいかにも
「広告代理店」風味の漫画が
載ってたりして
その前哨戦で田中康夫氏の
「なんとなくクリスタル」とかが
あったりした記憶があり、
田中氏の場合は一匹狼なのかもしれませんけど
その田中氏の作品名に添えば
「なんとなく」
流れに乗る
みたいなのは
これ現在過去未来絶対に
治らないと思うわけですよ。
恋人はサンタクロース
とか
ほとんど
「自分」には完全に意味不明でしたし。
でもそうゆう世の中の流れを
止めようとかなんだとか
何も思わないし思っても無駄だし、と。
ま、それはそれとして
この本に関しては
それまで当たり前のことと信じられていた
「年功序列」「定年退職」の路線から
ハシゴを外された者、
具体的に言えば「リストラ」された者
「早期退職」迫られた者等の
「悲惨」を語ったところに共感しました。
自分がほとんんどそれなので。
なので
「非進歩的」だし
「反知性的」なのかもしれないんですけど、
社会人未経験の若者政治集団
とか
商売未経験の学者
とか
机に向かって物書いたり
適当なことしゃべってたりする
だけの経験しかない
著作人だとか
(私は「経験至上主義」ではありません)
あなたたちには
政党とか組合とかメディアとかいう
「互助会」があるのであれば
それに甘んじるのではなく
もうちょっと
人の魂に染み入ることを
発信してみろよ、と。
いやほんと
どいつもこいつも
金太郎飴
としか言い様がないです。
いまのままだと。
そんな適当な商売の仕方だと
どんどんお客様減るのみ
でしょう。
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見たという知人の皆様が口をそろえて
「凄い」って言ってて、
おれも行かなきゃ、と思いつつ
今頃になってTSUTAYAで借りて
やっと見たんだけど
ほんと映画館に行かずに後悔しまくり。
これほど後悔させまくりの映画は
なかなかないぞ、と。
いやほんと大げさでなく。
高校、浪人、学生、社会人初期
くらいまでの年頃
映画館は少なく見積もって年50回以上
あちこち行ってたんだけど
パチンコ稼業が忙しくなって以降は
年1回ペース。
会社辞めてから
ペース増えるかな
と思ったらそうはならず。
というのも
一時「神経」病んで
若干「閉所恐怖」気味になったので。
同じ場所にずっと座って静かにしてなきゃダメ
的なものは
全部嫌だな
みたいな。
映画もそうだけど
飛行機、クラシックのコンサート、伝統芸能の会場、
講演、セミナー、等等そうゆうやつ。
その点、野球場とかユルい感じのライブハウスはOK
みたいなw
でまあ今では
「飛行機」以外は大体OKくらいに回復したんだけど、
一度遠ざかったものに
再び近づくって気運はなかなか盛り上がらないわけで、
夫婦そろって50超え
のサービス使えばいくらでも安く見ることは出来るけど、
だから映画館どんどんいくぞ!
とはならなかったんですよね。
なんだかんだで
ウダウダ書いてきましたが、
これは壮大な「前フリ」なのです。
どうゆうことかというと
私が主張したいことの第一点は
これに尽きる。
この映画
映画館で見たら
「閉所恐怖症」も一発で治る!
と。
いやほんとマジで。
いい意味で
「余計なこと考える」
余地を与えてくれませんw
齢51
「生涯ベストテン」にランク付けしても
間違いではないだろう
と思わせる
凄い映画です。
内容はいちいち説明しません。