全力リラックス!辻タダオ
おぐまゆきとのユニット「中前適時打」メンバー辻タダオのブログ。生年1964、生れ高松、育ち三多摩、元々の「本籍」は那覇、多摩市在住町田市勤務。中学吹奏楽部 町田市立忠生中学校 ・高校吹奏楽部 都立町田高校 ・大学ビックバンド 立教大学NSH 職歴 パチンコホール業界 →ブルーベリー農家。大阪近鉄からの東北楽天ファン。中前適時打は2016年4月結成。作詞作曲、key&vo 漫画原作等を手掛ける。心の師谷岡ヤスジ。無党派。表現規制反対派。ピアノはコードブック派我流。断煙断酒断パチ継続中。
エクセルの必要性は取り扱う項目の数の多寡による
ってことでこの、
松本人志&東野幸治「Excel知らない」 「マジで?」「衝撃的」
VS
「サラリーマンの常識が世の常識、ではない」

の件なんだけど
会社員→自営
の者として一言。

タイトルで言い表したとおり
エクセルに関しては
職務で取り扱う「項目」の多い少ないで
必要性の有無は変わってくるものだと思う。

会社員がエクセルを使う機会が多いのは
日本には「従業員数」が100人以上いる
中規模以上の会社がそこそこあるからだろう。

零細企業でも
従業員数3人とか超えたり
取引先の数が3つ以上だったり
する場合はエクセルないと困るだろう。

逆にいえば
松本、東野、一茂三氏のような
「個人事業主」が
エクセルを必要としないのは
むしろ当然といえば当然の帰結である。

「テレビ局に行って、テレビ番組に出演しました。
ギャラを貰いました」
という類の職業であれば
売れっ子で一日3本収録しました
ってレベルでも
自分の金銭の出入りの管理に
エクセルはいらないと思う。

TMレボリューションの人が
エクセル知ってるってのも
まあそれはそれで不思議ではない
というか
芸能人という一見豪快な「個人事業主」でも
マメな性格な人もいる
ってことであろう。

どちらがいい悪いの問題ではない。

そこでエクセルを使ったり使わなかったり
の人生を送っている私が
エクセルの神髄を説こうではないか。

というか過去に説いたことの
再掲である。

ま、丁度いま
「断酒」中で自分の過去を再検証中なので
これはいい機会でもある。

エクセルとはずばりこうゆうことなのだ。

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というわけで、
こうゆうことは
親から子へ
子から孫へ
語り継いでいって欲しいものである。
ドヌーブさん
がMe Too運動みたいな
「行き過ぎたセクハラ告発」のウネリに対し
男性にも口説く権利はある!!
と反旗を翻したってゆうような
報道が出てて
「ル・モンド紙に連名で寄稿」ってなってるんだけど
まあその原文の全訳を読まないことには
なんともあれだけど
大雑把に把握した限りにおいては
常日頃から「ポリティカルコレクトネス」には
疑問を抱いている者として普通に「支持」かな。
原文でもなんでもない新聞記事読んだ限りでも
「セクハラ」そのものの擁護をしてるわけでもないし
なんにもおかしなことは言ってないと思えるし。
ま、でもとにかく原文全訳公開を待つ!と。
そんな本筋とは関係ないことなんだけど、
この「ドヌーブさん」ってゆう呼び方だよなあ。
ドヌーブはやっぱり敬称略で
「ドヌーブ」で止めたいところですよ。
「ドヌーブっ!!」くらいな勢いでもいいので。
「さん」つけちゃうと
NHKのベテランアナウンサーが出てきて
「それでは海の向こうから恋人たちの
賛歌をたずさえてやってまいりました
カトリーヌドヌーブさんでシェルブールの雨傘あああ」
ってゆうような絵が浮かんでしまい
なんとも興ざめな気がしてならない。
ドヌーブ氏
とかの方がまだマシ。
こうゆうときの「敬称」のつけ方
って規準とかどうなってるんだろう?
ってことで
原文全部読んだら
「どうでもいい世相」
じゃなくて
「世相」カテゴリーでなんか書くかもしれないし
書かないかもしれません。
自己都合論陣っす
いやそのツイッターでも
ちょっと書きましたけど
正月終わってまた連休?
とか
成人式とか日付固定じゃなくなったんなら
「任意の催し」でいいんじゃない?
とか
「虚礼廃止」うんぬんかんぬん、とか
そうゆうことをつぶやいたのは
ああ、そうか今日は連休で金融機関休みかあ
いろいろあれこれやろうと思ってたのになあ
ってのがあったからっす。
もう完璧に「自己都合」であって
深い思想性はないっす。
深い思想性はないにしても
もともと「無精者」なので
成人式なんかと同じカテゴリーの話題
なんでしょうけど
「実は特に古くからあった伝統というわけではなかった」
系のあれこれで
まずは年賀状とか初詣なんかが
俎上に上ったりなんかして
私の場合は年賀状に関しては
出すのをやめて2年目ですけど
いろいろご意見おありとは存じますが
「虚礼」と断定したものはどんどんやめるし
世の中全体でもやめればいいのに
って思うタイプでございます。
もちろん経済全体
あと「虚礼」と断定されてしまったものに
関わる「売上」に影響を受ける職種の皆様の存在を
考えれば、
安直に虚礼廃止だ年賀状ヤメだクリスマスは中止だ
ハロウィン糾弾だといったような主張をするのは
おとなげない
と、思わないでもないです。
なんだけどやっぱり自分の人生の残り時間を
考えれば「無駄」は極力排除していくことに決めたので
反省して年賀状をまた書く
ということはしないでしょう。
で、「成人式」いらないんじゃないの?
ってことに関しては既にいろんな人が
言ったり書いたりしてますので
わたしが愚論を重ねてもしかたないとは
思いますけど、
私自身は成人式には出なかったし
そのことになんの後悔も未練もないうえに
その後の人生に
なんの影響もなかった
とだけは一応記しておきましょう。
というか成人式に限らず
「式典」に意味を感じないんですよねえ。
意義や意味を見出している方々の見解は
もちろん尊重しますけど
わたしがそちら側にいくことはないでしょう。
もう、ほんと
すみませんとしか言い様がないです。
あ、心の中だけですよ。
なんとなく謝るのはw
なわけで
今年の成人式が荒れようが荒れまいが
知ったこっちゃありません。
ああ、そういえば
椎名桜子っていたなあ、ってことで
この「又吉直樹の初脚本ドラマに感じた『説教臭さ』~」
記事に反応してみよう。
売り出したい側の売り出したい都合ありき
ってのが全部悪い!っていうほど自分もウブな性格じゃないし、
実際ほんとに「才能あるなあ」って場合もある。
で私は図書館にあった月刊の文春で「火花」読んだけど
「青春ドキュメンタリー」としては面白かった。
が、まあ「芥川賞」ってのはどうなの?
みたいなありきたりな感想。
で椎名桜子なんだけど
かんがえてみれば
「なんだよ椎名桜子って?知るかーボケッ!」
って当時の売り出しぶりを見て
猛反発した記憶だけはある。
まあようするに
「これから作品を発表する美人な作家が
デビューしますよ」ってゆう売り方だったと記憶する。
つまりそれしか記憶がないので
多分作品は全く読んでない。
読んでみたら面白いのだろうか?
というちょっとした興味は湧いているのだが
まあ読まないかな。
いろいろやることたくさんあるし。

なんでいまこうゆうことを書いているのかってえと
私はいま自分の過去を振り返って
記憶を掘り起こそうとしているのだ。

何故?
そりゃもう「断酒」以前を思い出しておかないと
これからの方針も決まらないぞ
みたいなね。
いやほんと自分の場合は
「酒」ってゆう「きOがい水」を断って
「元にもどる」んじゃなくて、
感覚としては「新たな人格を形成する」流れに
ならざるをえないわけです。
で、記憶を掘り返したうえで
「自分に何ができるか」を検証する、と
こうゆう算段なわけです。

何を好み何を嫌ったか
とか
そうゆうのも
大雑把でいいから
思い出せるものは思い出しておいて
記しておこう、と
そうゆう単純なことですよ。

でまあ引用記事のタイトルにもある
「説教臭さ」って語句なんですが
まあこれはもう明瞭にはっきりとまちがいなく
「説教臭いもの」は昔もいまも嫌っている、と。
説教の臭いを感じたら、
ん?説教が・・・・・・
キタキタキタキタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡(゚∀゚≡(゚∀゚)≡゚∀゚)≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━━!!!!!!!!
ってなって裸足で逃げ出す、とw

じゃあなんでそんな風になったのか?
なんですよね。
重要なのは。

それについては別の場所で
特に「更新」の告知もせず
地味に書いてゆこうと思うとります。

べつに「非公開」って決めてもいませんので
目に留まったらうすーくおつきあいくださいませ。

驚くほどのことではない。
てなわけでこの
『ブラタモリ』で言ったタモリの『鶴瓶の家族に乾杯』評の本音
のBLOGOS記事なんだけど、
そんなに驚くべきこととも凄いこととも全然思わない
のは何故かというと
本来タモリが言いそうなことを普通に言っただけ
だからである。
だって「ザ・ベストテン」に中洲産業大学教授で出た時から
ヒット曲の「歌詞」をきょうびの言い草で表すところの
「ディスり」芸でもって
ガンガンいじり倒してたし、
そもそもそうゆう芸ってそれより前から
関西で人生幸朗もやってたし、
そもそも「家族に乾杯」ってさだまさしの唄入りだから
タモリがディスらないはずがない
くらいの想像力働かないのかなあ。
というかこれが
驚くべきこと
凄いこと
って捉えられちゃうのが怖いと言えば怖い。
「言いたいことも言えない世の中なんて」
ってやつかw
わたしは
「人の批判や悪口はよくない
そうゆうことはやめよう」という風潮そのものが
あまり好きではないので
むしろ世の中一人残らず全員悪口言われるのが普通
くらいで丁度よいのではないかとすら思う。
だってそうでないと
マンションの管理組合や
PTAや町内会なんかの「長」に
くじ引きで決まっちゃって
折しもなにかの偶然で自分に落ち度はないのに
なにか悪い「問題」が発生しちゃって
どうゆう流れかあれよあれよという間に自分が
「つるし上げ」くらわないとも限らない世の中だってのに
何の準備もないままにそうゆう修羅場に臨まなきゃいけない
とゆうことになってしまう。
「普段から批判や悪口封じ込め」とかやってると。
ま、以前にも書いたけど
自分は「家族」がクローズアップされるコンテンツは
あまり好まないので「家族に乾杯」もほぼ見ないし、
それで何か困るってこともない。
普段家族で暮らしてるのに
そのうえさらに「家族の番組」見るって
それこそ屋上屋を架すってやつですよw
まあ、世の中には家族であろうとなかろうと
「人の人生に興味なし」というノリの者も一定数いて
自分もどっちかってえとそっち寄りかなあ。
ま、家族の者の個性が強すぎるので
「しらねーよ」ってやってないと
こっちがおかしくなるってのもあるしw
ま、私は「タモリのキースジャレットの真似」から
ピアノ弾き語りに目覚めたってのもあるので
この偽善問題ではどっちかてえと「家族に乾杯」の
鶴瓶&さだ派ではなく
そうゆう「派」があるのかどうなのか知らないが
「タモリ派」に近い。
であるがタモリ本人ほど「さだ嫌い」でもないし
関白宣言とかシャレで唄っても全然平気だし、
加速度とか案山子なんかのさだナンバーは
わりとガチで好きだし、
世の中右も左もなく
何事も「是是非非」ってことですよ。
なんてたって「さだ研」的な友人のバックで
7カポで「パンプキンパイとシナモンティー」、
モーリスのアコギでアルペジオやったりもしたしw
ハンマリングオン!オフ!
っすよ(*^^)v
私が不毛でないと感じた唯一の世代論について
語ろうと思って、
その踏み台として
この「ゆとり教育は成功だった」
の記事のリンクをまず貼っておく。
「コメント」欄にあふれる数々のツッコミに
私もおおむねほぼ同意。
実にどうでもいい内容の文章だ!
とだけ、ここに記し、
あとは我田引水の持論を展開することにする。

この記事では
「ゆとり」とその前後
「バブル」とその前後
あたりの
まあ「いま現在」にそう遠くない時期の
「世代論」が展開されているわけだが
「ゆとり」にせよ「氷河期」にせよ
「バブル」にせよ「団塊」にせよ
個々人の差異がかなりあるし
各々の「世代」をひとくくりにして
まとめて何か特徴づけよう
ってのは無理があり過ぎると思う。
物事なんにでも「例外」はあるし。
語句の定義も曖昧な部分あるし。

世代論を展開するのであれば
やはり
戦前戦中戦後
のように
「00前」とか「00後」とかの方が
論理的な文章は展開しやすいと思う。

より現在に近い
ところで
区分けするのであれば
たとえば
震災前と震災後
であるとか
壁崩壊前と壁崩壊後
とか
オウム前とオウム後
とか
小泉訪朝前と小泉訪朝後
とか
単純に昭和と平成とか。

もっと細かく言えば
共通一次前と共通一次後
とか
マイナンバー制前とマイナンバー制後
等の
制度の変更面でも区分け出来るし、
テクノロジー面では
モバイル前とモバイル後とか
DTP前とかDTP後とか
娯楽面では
シネコン前とシネコン後とか
観客実数発表前と観客実数発表後とか
インフラ面でいうと
川口市の埼京線開通前と埼京線開通後とか
北日本の青函連絡船廃止前と青函連絡船廃止後とか
まあ分け方はその気になればいくらでもあるし、
それで何かを書けばおそらくそれなりに
意味のあるものにはなるだろう。
そして何に意味を見出すかは人それぞれ
ってことで
ここからが本論。
「私が不毛でないと感じた唯一の世代論について」
である。

私が思うに
それは東海林さだおのエッセイにあった
「ホステスにモテるモテない」の話である。

そりゃまた随分はなれた時代に飛んだなあ
と思われるかもしれない。

しかし手元にその本の現物が無い
にも関わらず
しかも何十年も前に読んだもの
なのにも関わらず
大筋その内容を覚えている
ということは
その文章が平易でわかりやすいうえに
大いに納得のいくものであった
ということなのである。

で、東海林さだおのエッセイの総分量、
過去から現在における総出版点数は多すぎて
どの書籍に収録されていたのか最早わからないし、
あるいは絶版になっている書籍なのかもしれないので
出典を明示できないのはご容赦いただきたい。

そこに書かれていたのは
大体こうゆうことである。
1937年生まれの東海林さだおは
終戦時の年齢8歳ということになるので
大雑把に言えば「戦中派」ではあるが
「戦時に物心ついてた」わけではないし、
当然「戦闘経験」も「従軍経験」もない。
しかし一世代「年上」の
1927年以前生まれの
しかも男性であれば
「戦時に物心ついてた」のは確実であり
さらには「従軍経験」も「戦闘経験」も
あったかもしれないわけで
銀座のバーやスナックやクラブで
ホステスに向かって「戦争」を語る際の
「話の重み」が全然違う!と。
ひいては「モテ方」が全然違う!と。
これを
あのタンマ君やアサッテ君調の絵柄なんかも
交えて切々と、そして時に淡々と語っている
みたいな内容であった。

「世代論」ここに極まれり!

私個人はいまだに感じているのである。
DTP前世代であれば
DTP覚えればいいじゃん!
であるとか
オウム後世代であれば
後付けでオウムの知識を覚えて
カルトにハマらないように気を付けよう
であるとか
個々に「修正」が効くのだが
こと戦時、戦中に関しては
個人でどうにかする
ってレベルではないまさに
「どうしようもなさ」であふれかえっている
と。

「10年の歳の差」は
いまこの時代であれば
まあまあそんなのたいしたことないっす
と言い切れるんだろうけど
東海林さだお規準で考えると
まったくもってそうゆうわけにはいかず
まさにこれぞ「世代間格差の極致」だと思う。

ごくごく冷静に俯瞰して考えれば、
「東海林さん、でも
戦争に行かなくて済んだのだから
よかったじゃないですか」
ってゆうことになるんだろうけど
そんなありきたりな論に堕することなく
しかし淡々とした筆致で「世代」を語る
ってところがエッセイスト東海林さだおの醍醐味なのだ。

で、
そうは言っても
その東海林さだおの生まれた時代の
前後プラスマイナス10年のどこかで
自分も生まれたかった
などとは毛ほども思わない。
そりゃ「戦争とかマジ鬱陶しいんですけど」
としか言い様がないですからね。
こだわりが無さ過ぎる男
である私辻タダオが、
ネット上にあふれる
マッチポンプ的
数合わせ、埋め合わせ的
な記事や論稿に適当に反応して
「世相」を斬ったり斬らなかったりする
という基本理念でまたまた
新たなカテゴリーを設置したのが
この「どうでもいい世相」である。
まずそもそもブログをやってる人全員に問いたい。
カテゴリーどんどん設置しないでどうする!!
と。
カテゴリー分け機能があってこその
ブログではないか!!
と、その点にだけ異様に「こだわり」があることを
表明しつつ
代田ひかるばりの声色で
「どーでもいい」ことに関して語る一発目の話題は
日本電産社長の
「早く弁当が食べられる人の方が有能」の件の記事
についてだ。
実にどうでもいいといえばどうでもいい話ではある。
この記事から得られる教訓はただひとつ。
人は誰かの「あまりにも忠実なフォロワー」には
ならない方がいいってことだ。
日本電産社長を尊敬してやまない日本電産社員
の人もいるのだろう。
尊敬する人がいる
ということはむしろいいことかもしれない。
しかし、その人を尊敬するあまり
その思想や行動様式すべてを真似するというか
はては「自己改造」までしてその尊敬する者になりきるとか
それはちょっとやり過ぎなのではないか?
と考えるのが普通だと思うわけである。
まあ、真似しても「7掛け」くらいで止めておくとか。
(しかしこの「7掛け」ってのは実に汎用性のある概念だ)
てなわけで私はあくまで普通の人の視点で語ろうと思う。
ただちょっと一言。
コスプレや物まね芸に至上の価値を見出している人々を
ディスる意図は全くない
とだけ申し添えておく。それはそれこれはこれ、で。

で、だ。
社長が「早く弁当が食べられる人の方が有能」
と言っている以上、
もし自分が一社員であるとするなら
評価されないよりはされたほうがよかろう

「普通」の思考回路で考える。
であるから
じゃ弁当持って来よう
ってなる。
とりあえずここでは
弁当を持ってこれないケース
は考えないものとする。
というか
社員は例外なく全員手弁当持参で
それを作ったのは自分なのか自分以外なのか
は問わない
という条件にしよう。
家族構成とかバラバラだろうし。
これ以上細かく条件付けはもうしない。
ここからいよいよ始まる出世レース。
まず脱落するのは
「高機能保温弁当箱」使用者である。
あったまってるものはそうそう早く食べられない。
逆もまた真なりで
ダイエットの為に「冷製」メニューに
したものの
強すぎる「保冷」機能で
パスタがシャーベット状になってしまった
とかなるとこれまた早く食べられない。
歯が痛んでたりするとお手上げだ。
となると
普通に常温で食べる用の
オーソドックスなアルマイトかプラスチック製の
弁当箱を使用するのが無難である。
ということは中身は
常温が基本であり
熱くも冷たくもないものが望ましい。
で、いろいろ考えていきつくところは
やはり「日の丸弁当」だ!!
となり、
気づくと全員日の丸弁当!!
ってなるのだが
果たしてそれが人の正しい道なのだろうか?

肝心な言いだしっぺの社長当人が
疑問を抱き始めて
我に返って冷静になり
遂には、
「弁当を食べる速度に関しては
特に評価を定めないことにする」
と宣言するに至る。

ま、つまり
食事も「腹八分目」がよい
とされているのだから
「人の話」も聴いたとしても
八分目くらいでいいんじゃないの?
と。
いやまて
さっき「七掛け」って例えに出したから
七分目くらいかな。
というか昔から
「話半分」ってゆう言い回しもあるから
五分目、半分でいいだろう。

ということで
結局私は
日本電産社長を褒めもけなしもしなかった。
日本電産社長の話であっても
「話半分」くらいに聴いておけばいいんじゃないの?
みたいなことを
まあまあ適当に言ったまで。
この投稿に関しては
「世はすべてこともなし」である。

今後も
この「どうでもいい世相」カテゴリーは
こういったような調子でやっていこうと思う。